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俺たちゃ町には住めないからに・・・

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海が好きな人は、山も好きな人が多い。
ヨットのレッスンを受講される方が
実は今まで山登りをやってました・・・という方が複数いることに
自分も含めて、そうなんだなって思う。
同じ、「自然」好きといえばそれまでだが、何かそれ以上の共通な何かが
そこにある気がしてならない。

山に入ると、緑が綺麗だとか、空気が美味しいとか、山嶺が美しいとか
もちろん、感じる。
でも、そこに身を置くことが長くなると、少し違う感覚が湧き上がる。
山、そのものに、まるで人格のようなものを感じる。
いつも、どこからか見られているような感じ。
起こることすべてが、その見ている何かの計らいのような気持ちになってくる。
不意に起こる夕立、危うく際を落ちてゆく落石、さっき通過したルンゼを
怒涛のさまで流れる雪崩。
その直前にあったはずの「予兆」に気がつけば、ぼくは能動的に動き
気が付かなければ、確率にその身をゆだねるしかない。
緊迫した瞬間の後に、必ず訪れるのは、誰かが「そうした」という感覚。
お前は気付くのか、わかっているのか、そこをゆく資格があるのか・・・・。
そんな状況で、それを、「神」と感じるのは、自然なことだ。
「神」を信じないと言ってはばからない自分が、知らぬうちに「神さま・・・」
と、弱音を吐く。
けして対峙する気などない。
どうすればいいですか・・・と心の中で問いかけることはあっても。
だから結果的に、ぼくは、山に「神」を感じている。

海もそうだ。
先ほどまで穏やかで、でかいプールのようだった太平洋が
ほんの数時間で形相を変え、山並みが続く「山」になる。
ほんとの「山」と違うのは、それがどんどんと、何か意識を持った動物のように
動きいてくるのだ。
海の山の谷間にいると、すべての山が自分に向かってくるような気にさえなる。
風の音は、何か、自分に向かって叫ばれているような気さえするし
どこまで行っても、その風は、けして収まらない、そんな気さえする。
そんなとき、ぼくは誰かに、自分の存在を試されているような感覚になる。
山の「神」は、鋭利で鋭い感じ、海のそれを「神」と呼ぶなら、重く、圧し掛かる感じ。
どちらも、ぼくがそこにいるとき、一部始終を、いや、心のうちまで
見られているような感じがするのだ。

だからというわけではない。
でも、ぼくは一人で海や山にいるとき、独り言が多い。
もちろん、自分に言い聞かせる意味もあるが、ぼくを見ている何かに
問いかけ、確かめ、ぼくはちゃんとやってますよと、アピールする意味もある。

海や山が好きだといっても、その神様がいつもやさしいわけでなく
もう二度と来るものかと、何度も思った。
どうしてこんなところに、ぼくは命をかけてまでいるのだ。
そんな価値が、この行為にあるのか。
誰も評価などしてくれず、おまけに神様はぼくを「いじめる」。
試されたって、ぼくはぼくのままだ。
もう二度と、こんなとこには来ない!

そう、強く、思ったはずなのに、嵐が過ぎ、麓へと続く静かな登山道を下るとき
安心な平穏な、伊勢湾や三河湾の入口に帰りついた時
懲りないぼくは、次の「旅」のことをもう考えている。
「町」に戻れば、そこでの自分は仮の姿。
息がつまりそうになりながらも、堪えて、「旅」のことを心の糧に
なんとか生き延びる。
「町」で暮らす時、神など意識することはまったくない。
だから、山へは「戻る」という感覚でいた。
今では海へも、「戻る」のだ。
そしてそこにいつもいるはずに神様と話をすることで
なんとなく自分の「居場所」を確認するのだ。

昔、山で唄ったうたがあった。
そのフレーズ、「おれたちゃ町には住めないからに・・・」
そうなんだな、同じ感覚を持つ人は、マイノリティーだとしても確実にいるのだ。

by hwindlife | 2010-10-18 00:38 | 好きなこと大切なこと