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佐久島クルージング


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(島の散歩の途中でみた「ヒトデ」 干してあったけどどうするのかな?)

先日、春らしいお天気の日。
佐久島まで日帰りのヨットクルージング。
蒲郡から10マイルと少し、ヨットなら二時間ほどの三河湾の真ん中です。
風もゆるく、まったりとした海面を滑るように向かいました。
西浦の岬をすぎたあたり、スナメリがピョンピョンと船の後ろを横切りました。
まあるい背中がひょうきんでかわいく見えます。
スナメリを目撃するたび、この海を大切にしなきゃ・・・とあらためて思います。

佐久島は東港にヨットを停めます。
ちょうど大潮の干潮が重なり、かなり浅い水深。
このフネではギリギリです。
上陸すれば、地元の漁師たちがアサリ漁の真っ最中。
すごい量のアサリを取っていました。
「島アサリ」は美味しいと言われます。
少し漁師たちのカゴを覗くと、すごく大きなアサリがたくさん取れていました。

島をゆっくりと海岸線に沿って散歩します。
この島は多くの若いアーティストが移り住んでいることで有名です。
島のあちこちに、彼らの作品がなにげなく展示されています。

途中、小中学校(一緒の校舎です)に立ち寄ると、校庭にいた人たちが「こんにちは!」と
声をかけてきてくれました。
普通なら怪訝な顔で不審者者は入らないように・・・と注意されてもおかしくない場面。
のどかさを感じました。

船に戻って昼食、そしてお昼寝。
至福です。
夕方まで眠ってしまい、あわててアンカーをあげて蒲郡へ向かいました。
帰りは少しあがった南寄りの風をセイルいっぱい受けて、船も気持ちよさそうに走りました。

こんななにげない、デイクルージングも素敵です。
島が目的地というのがいい。
この魅力を、もっと多くの人に伝えたいものです。

by hwindlife | 2009-04-21 23:33 | ヨット  

追憶 バムになる・・・

指の怪我は予想に反して状態が悪く、力を入れるだけで激痛が走ります。
夜は冷やしたタオルを指に巻きながら、祈り、眠るのですがいっこうによくなりません。
今考えれば、あの怪我した期間、ヨセミテのもっと奥、ミューアートレイルという
とても素晴らしいトレッキングコースがあったのだから、そこを観光気分でトレースすれば
よかったななどと思うのですが、あのときのぼくの頭にはクライミングしかありませんでした。
左手だけでボルダリングしてみたり、バランストレーニングのために綱渡りをしたりして
気を紛らわそうとしました。
でも、このまま、帰国まで治らないんじゃないかというネガティブな気持ちに支配され
ずいぶん凹んだ顔つきで、ウロウロとキャンプ4を徘徊しました。

ぼくはいろんなことをする、かなり器用な人だと誤解されることが多いです。
でも真実は、ひとつのことに集中してしまうと、まわりが見えなくなり、しばらくそのことだけに
体も心も、すべて支配される期間を過します。
クライミングしていた期間はスキーもしなかったし、もちろん、町で遊ぶことなんて興味もなかった。
短い時間で、深く深く入り込み、もうそれしか見えなくなるのが常です。
ぼくはクライミングがすべてであり、登れなくなると、初夏の素晴らしきヨセミテの大自然すら
なんだか色褪せて見えてしまうから、性質がが悪い・・・・・・。
その期間の日記は、書きなぐるように、不安、後悔、幻滅・・・・・そんな心情を吐露しています。
なんのためにここにいるのか、こんなタイミングで怪我をするなんて、所詮ぼくはそれほどの
チンケなクライマーかもしれない・・・・・・・。
まさに・・・・悶々としていました。

そのころ、資金残高の乏しさも精神を苦しめていました。
ぼくはチャックに教えてもらった「あること」をすることにしました。
それは・・・・アルミ缶拾いです。
ヨセミテは国立公園なのでゴミを極力少なくするため、公園内で販売するアルミ缶の飲みものに
25セントのデポジットを付加していました。
つまり空のアルミ缶を収集場へ持っていけば、25セント却ってくるのです。
公園内にはそんな換金ステーションが何箇所かあるのですが、多くの観光客は
知らなかったり、めんどくさかったり・・・・・・。
結局はごみ箱へいくことになるのです。
ターゲットは、そのアルミ缶です。
日中それをやると、レンジャーから注意をうけるに違いありません。
ぼくは深夜、空にしたザックを肩に、懐中電灯をつけて公園内のごみ箱を探して歩くのです。
中には、ワンボックスのバンほどの大きなごみ箱もあって、ぼくは体ごトそこに入り込み
獲物を探します。
多い時は50個以上、10ドル以上になり、指が痛くてクライミングできないあの時期
ぼくは夜な夜な怪しいヤツになり下がっていました。

今でも、夜ゴミ捨ていくと自転車にいっぱいアルミ缶を載せているホームレスを見かけます。
ぼくはその光景に、あのときの自分が重なり、手伝ってあげたくなるのです。
アルミ缶は、ひもじかったぼくを、本当に随分と救ってくれました。
忘れられません。

結局、二週間近く、ぼくは「指」でくすぶっていました。
登っていない、登りたいルートはまだあるのです。
多くを望むのは、時間的にもう無理です。
焦る気持ちと指への少しの不安と、そしてしぼみかけの希望を、なんとか微妙なところで
バランスをとりながら、ターゲットを絞りました。
そう、あのセパレート・リアリティー。
垂直を超えて、屋根裏をぶら下がりながら、越えてゆく5.12のルート。
高度感もたっぷりあって、絵になるルートです。
何度、そこを登る写真を見たことでしょう。

憧れのあいつを落として、ぼくは帰国しよう・・・・そう決めました。

by hwindlife | 2009-04-15 00:17 | 好きなこと大切なこと  

追憶 クライミングパートナー

クライミングにはパートナーが必要です。
ビレーをしあって、安全性を確保するのです。
ビレーヤーはリードするトップと呼ばれるクライマーのザイルをビレー用のギアで流し
もし墜落したとき、最小限の落下でそれを止めるのです。
もちろん、フリークライミングでは打ったハーケンを手掛かりにしたりはしません。
自然と対峙するために、アスレチック的に自然の岩の形状を利用して、攀じるのです。
ハーケンやナッツ、フレンズと呼ばれる安全を確保するギアを、墜落を止めるために
岩の割れ目に埋め込んだとしても、それを手掛かりにしないのが「フリークライミング」です。

ギアは持ってきました。
でもパートナーは、現地で探そう・・・・あまり深くは考えていなくて、なんとかなるような気がして
いました。
日本人だって何人か来ているはずです。
ぼくのように、独りで来ているクライマーもいるはずだし、きっと・・・・・。
でも、それがおおきな問題でした。
ソロで来ているような人は、墜落のヘッジをしないソロ・クライマーだったり
複数人のパーティーに、加えてもらうことも言葉の問題から、ずいぶんハードルの高いものでした。
ぼくはキャンプサイト周辺の大きな岩を、飛び降りてもけがをしない範囲で登る「ボルダリング」をして
なんとかモチベーションを維持しながらもパートナー探しをしていました。
レンジャーステーションの入口にある、コミュニティーの看板には日本で言うところの
「売りたし、買いたし」の張り紙に交じって、クライミングパートナー募集の張り紙もあったりして
ぼくもそこへ、登りたいルートを列記して、キャンプサイトナンバーを書いて張ってもみました。
それでもどこにも登れないまま、瞬く間に二週間近くたってしまいました・・・・・・。

ある日、ぼくのキャンプサイトの横に、独りのアメリカ人がテントを張りました。
軽く挨拶を交わすと、人なつっこい笑顔で、握手を求めてきました。
チャックというその若者(ぼくより少し年上でした)は、アメリカのいろんな場所のエリアを
登って回っているのだと、フリークライミングが中心で、「ハングドッグフライヤー」と
「セパレートリアリティー」をやりたいのだと、言いました。
それはぼくも登りたいリストの上位にある、ルートでした。
それからぼくとチャックは、時には筆談で、時には大きなゼスチャーで、時には英語と日本語の
ミックス言語でコミュニケーションを深めました。
互いに単調な食事を、持っている食料を少しずつシェアーすることで変化をつけたり
二人なら怖くないので、センターのピザ屋の前で、日本人観光客が残したピザを
その旅行者が捨てちゃう前に声をかけて貰ったりもしました。
もちろん、あの黄色いトポから、いくつか二人で練習用のルートを探し出して
何本かトライにでかけました。
交互にリードして、ぼくはあまり自己主張しないチャックの性格が、とても気に入りました。
チャックと登りだすと、ぼくの気持ちもずいぶんと解れて開放的になり
あのレンジャーステーションのボード見てやってきたオージーと、ハーフドームにある
あるルートを登りにいったりもしました。
言葉にもずいぶんとなれてきました。
けっして、英語が上達したわけではありませんが、空気が読めるよゆうが出てきたし
その場における感覚で、なんとなく理解し、なんとなく伝え、それで登るには不都合が
なくなっては来ました。
もちろん、もっと多くのことをコミュニケートしたかったし、英語のボキャブラリーを増やしたいとは
日々願っていました。
その点ではチャックは、またいいパートナーでした。
彼は日本に興味があり、「禅」のことや「侘びさび」なんてことばも知っていました。
ぼくは彼に日本語を教え、彼はぼくに英語、それもスラングをたくさん教えてくれたのです。
彼とは一か月弱、キャンプ4で一緒でしたが、とてもいい友人となり
彼が次のエリアへ旅立つとき、少し涙が出ました。
ひげもじゃだった彼の風貌は、今でも強い記憶として残っています。

五月になるとちらほら日本人もやってきました。
名前を聞けば、互いに山の雑誌で「名前だけは知ってる」というようなクライマーが多かった。
ぼくは気の合いそうな何人かと、のぼりたいルートをいくつかトレースしました。
でも、日本人とのぼっていると、少し「意識」が先行してしまうことに気が付きました。
ぼくは結構、まわりのこと、まわりから見られている自分のことを気にするたちなのです。
異国人ならあまり感じなかったそんな「自意識」を、日本人とのぼると感じてしまい
彼よりうまいとか、スマートでないとか、なんだかクライミングに集中できないでいました。
もうその頃から、結構ナーバスな自分が現れ始めていました・・・・・・。

だたひとり、ぼくは尊敬する日本人の「世界的クライマー」であるS氏と登ることができたときは
別でした。
ぼくは彼のことを、雑誌の特集などで知っていて、いつかああなりたいと憧れていました。
キャンプ4のあの焚き火フォーラムでお会いして、登るのを誘われて、有頂天になって
ついてゆきました。
彼のクライミングスタイルは静かで、滑らかで、クールです。
動きによどみがなく、周りの空気も時間も止まったように感じます。
彼の集中に、ぼくも引き込まれていきました。
ぼくはどうのぼったか・・・・全然覚えていません。
ただ彼の動きが美しかったこと、あらためてそのスタイルを目指したいと強く思ったことだけを
覚えています。

そして滞在もあと一か月を切ったころ、ぼくは小さなフォール(墜落)をして、その拍子に
右手中指を脱臼しました。
幸いにもすぐに戻り、骨折もなかったのですが、しばらくは腫れがひきませんでした。
そこから、ぼくの悶々とした日々が、始まってしまったのです・・・・・・・。

by hwindlife | 2009-04-12 23:58 | 好きなこと大切なこと  

追憶 その2

ぼくの風貌たるや、それはその時点でも少し時代遅れのヒッピー風。
髪は肩まで伸ばし、それをときには後ろでひとつにとめていました。
身長173cmで体重は55k弱。
体脂肪は5%を切っていたかもしれません。
不格好に盛り上がった方の筋肉。
ボロボロの指先。
細い脚。
黒い顔・・・・・。
40kgもある薄汚れたザックを担ぎ、トボトボ歩く姿は、怪しくまわりに映っていたでしょう。
これが山中ならともかく、ダウンタウンではただのホームレスです。
この怪しい東洋人を乗せる勇気がある車は、めったにはありませんでした。

ヨセミテに行くにはロスからルート99を北へ向かいます。
マーセドという町から、東へ向かえばヨセミテ・ナショナル・パークの入口に達します。
ロスから約1000km。
ぼくはサンタモニカを離れ、ルート5沿いに歩き、そのインターチェンジの入口付近で
またあの段ボールを掲げました。
4月とはいえ、日中のロスの日差しは強く、暑い・・・・・。
ぼくに、目もくれずに通り過ぎる乗用車。
チラッと見るけれど、目をそらし、また通りすぎるバン。
朝からそこに立ち、朦朧としはじめた夕方、大きなトレーラートラックが、少し前で止まりました。
ひょっとして乗せてくれるの?
ぼくはヨタヨタと近づき、そのトレーラーの運転手に、すがるような思いでヨセミテへゆきたいのだと
言いました。
聴きとりにくい英語で、あまりよくわからなかったけれど、マーセドまでなら乗せてく・・・。
そう聞こえました。
ぼくは大急ぎでザックを取りに、戻り、そして二階建てバスのようなトレーラーの助手席に
よじ登りました。

あきらめかけていました。
バスでゆく方法も考えなくちゃ、とも思っていました。
だから、はじめてのヒッチハイクができたことに、少し興奮していました。
何度もつたない英語でお礼を言いました。
少し腕っ節の太い中年の彼は、いろいろと聞いてきますが、ほとんど聞き取れません。
少し気まずいけれど、ぼくはぼくなりの英語で、ロッククライミングに来たこと。
これから二か月以上、ヨセミテに滞在して修行すること。
学生であること。
自分のことを、言葉を探しながら、少しづつ話しました。
フレスノという町でいったんインターを降りて、町中のトラックヤードに寄りました。
ぼくはしばらくトラックのそばで、用事がすむのを待っていました。
もう日が暮れはじめていました。

アメリカのずっと中に入ってきた感じがします。
ロスのダウンタウンにいたときより、ずっと遠くに、知らないところへ来た感じです。
緊張はまだ解けてなくて、ときどき気を許すと、胸の奥が「キュッ」としぼむような衝撃があります。
ぼくの緊張しているときの、「くせ」です。
空は赤く焼けていて、美しいけれど、寂しげです。
緊張をゆるめたら、泣いてしまうかもしれません。
ヨセミテに行かなくっちゃ・・・・・・。
それだけが、ぼくをここにいさせる、理由なのです。
若き、単純で、強い、思いこみです。
でもそれは、とても人を強くさせるのです。
今思うと、そう感じます。

ロスから約8時間、マーセドについた頃は深夜でした。
ぼくはしばらく眠っていたようです。
揺り起こされ、ここまでだと言われ、丁寧にお礼を言ってトラックを降りました。
深夜のルート99のインターを離れ、町中のほうへ向かって歩いてゆきます。
マーセドは小さな町で、少し歩くとすぐ町の中心部らしき場所につきました。
中心部のバスターミナルのベンチで、その日は眠りました。
朝、通勤の人たちが行きかう時間まで、ぼくは誰にも起こされず深く眠っていました。

マーセドはヨセミテの玄関にあたる町です。
ここから先、道は山深くなり、町らしい街はありません。
これから長く、ヨセミテで暮らすために、ここで食料をある程度調達するつもりでいました。
それには格安のディスカウント・スーパーを探さねばなりません。
日本で取得した情報で、この町には大きなその手の店があると聞いていました。
ぼくは、歩き、聞き、その目的の店を探しまわりました。
小さな町です。
お昼過ぎには、その大きな倉庫のような店にたどり着きました。
ぼくはたくさんの、期限ぎれの缶詰を買いました。
特に・・・・安かった大豆の缶詰はたくさん買いました。
それを、持ってきたサブザックいっぱいにして、またターミナルに帰りました。
ぼくはターミナルに寝泊まりして、数日、買い出しに励みました。

さて、そろそろヨセミテにいくタイミングです。
ここから100km。
重たい荷物が増えちゃったから、歩いていくわけにはいきません。
バスは・・・・・60ドル!もします。
これはやっぱり、誰かに乗せてもらうしかありません。
ターミナル近くで、また段ボール・・・です。
何度も手をあげ、ダンボールをかざし・・・・・・一日中道に立ち続けても、止まってくれる車は
ありませんでした。
もう気持は逸っています。
早くヨセミテでクライミングしたい!
もうバスで行ってしまおうか・・・・・。
そう思いはじめた三日目の朝、三人組のミニバンがぼくの前に止まりました。
彼らもヨセミテへクライミングにいくと・・・・。
お願いします!乗せてって!
ザックと食料の入った段ボールふた箱をトランクに入れてもらって、乗りこみました。
彼らはコロラドから来ていること、今年はヨセミテがまだ少し寒そうだから、様子を見て
もっと南の岩場へいくかもしれないと・・・・。
ぼくは寒くてもなんでも、ヨセミテにいくしかありません。
いくつか有益な情報を聞かせてもらっているうちに、そう、憧れのヨセミテ!です。

ヨセミテはヨセミテ渓谷であり、両サイド岩壁に囲まれた谷(バレー)です。
両サイドの岩は垂直に1000mを超えます。
白く、輝く美しい花崗岩です。
バレーは広く、その中心に川が流れ、熊やシカなど多くの動物が住んでいます。
直径10kmくらいのそのバレーに、国立公園のビジターセンターやキャンプ場が点在します。
ぼくはその中で、一番チープな、通称「キャンプ4」の前で降ろしてもらいました。
チャンスがあれば一緒に登ろう・・・そう声をかけてもらい、少し嬉しかった。
でもここへようやく来たことに、来れたことに、激しく興奮していました。
ヨセミテだ!これがあの、あこがれたヨセミテだ!
ぼくは希望に満ち溢れていました。

つづく

by hwindlife | 2009-04-06 22:37 | 好きなこと大切なこと  

追憶

二月にカナダを訪れ、遠くに見える白い山並みにいつかのアラスカを思い出しました。
あの山行は最悪で、天気が悪く、なによりメンバー内の人間関係がぎくしゃくしていました。
失敗した理由はいろいろとあるけれど、今、思い起こしてみれば成功する条件がなにひとつ
揃っていなかった。
長く、記憶の奥底に封印するように忘れていた記憶です・・・・・。

ふとしたことで、過去の記憶が蘇ることがあります。
先日、会社の若いスタッフと話す機会がありました。
話題は彼女が最近行った、南の島の話になりました。
初めての海外への一人旅だったそうです。
独りで海外を旅することがありますか?と訊ねられて、ぼくはもう30年も前になる初めての旅を
思い出しました。
もうずいぶんと長く、その「記憶」に触れたことはありませんでした。
でも、回想しているうちに、そのときのいろんな出来事が記憶の池の底から湧きだしてきて
こんなことも覚えていたのかと、自分でも驚くほどです・・・・・・・・。

はじめての外国。
それはぼくにとって「アメリカ」でした。
目的はフリー・クライミング。
場所はヨセミテでした。
二十歳に満たない貧乏学生のぼくは、そこでのクライミングを長く夢見ていて
自分を大きくステップアップさせるには、そこへ行って修行するしかないのだと強く信じていました。
いつもの山にいくような、大きなザックひとつで、ぼくはロスアンジェルスの空港に降り立ちました。
そのときの所持金は、日本円で10万円ほど。
一ドル255円の時代です。
10万円の価値が、なんとも寂しいものだと、両替してすぐに気が付きました。
帰りのチケットは2か月以上先のクローズチケット(変更不可)。
ここですでにもう不安になることろですが、そこは若さとバカさ。
なんとかしようとあてもないのに、強気でした。

まずはヨセミテに行かねばなりません。
ロスからヨセミテは1000k以上も離れています。
バスに乗る金はありません。
空港で粘り強く、ヒッチハイクを試みました。もちろん初めての経験です。
30cm四方の段ボール紙に「YOSEMITE]と書いて、道路際に立ちつくすのです。
観光客が多く、なかなか難しい。
ぼくは街にでるほうが得策と考えました。
歩くのは本職です。
空港からダウンタウンへ向けて、なんともおおざっぱな空港でもらった地図を持って歩き出しました。

クライマーは山や、岩場では本能が研ぎ澄まされ、動物的勘が働くものです。
でもそれが街の中では、まったくもって機しない。
クライミングルートに対して、準備万端で下調べしてあるのに、そこへ行くまでの町のことなど
まるで考えていませんでした。
アメリカにつけば、すぐそこにヨセミテがあるような気になっていたのです。

ダウンタウンへ3時間も歩いたでしょうか・・・・・。
そしてそこに見たルート看板「サンタモニカ」。
これは桜田淳子の歌で聞いたことがある。
ぼくはその方向へまた歩き出しました。
結局、空港を出てから7時間近くかけてサンタモニカに歩いて!到着したのです。
そしてそこは、もちろんのこと、「山」ではなくて「海」であり、ぼくはお腹をすかして朦朧としながら
今日はここでビバークしよう・・・と決めました。
夕食は近くのマクドナルド。
これが高い!ビッグマックが2ドルですから、日本円で500円以上!
ぼくにとっては、なんとも辛い出費ですが、ほかにもっと安い食事も探せません。
ビッグマックを丁寧に食べて、海沿いの公園の水道水を流し込んで、ぼくはベンチに横になりました。
風は気持ちよく、海から吹いてきます。
季節は4月、いい季節です。
疲れて眠りについたまではよかったのですが・・・・・・・・そう、もちろん夜警の警察官に追い立てられ
またトボトボと歩き、場所を変え、そしてまた叱られてまた場所を変え・・・・・。
長い眠りをとることなどできずに、初日の夜は過ぎてゆきます。
ヨセミテへ着けるのだろうか、と少しだけ不安になります。
初めての外国、そして初めての外国での野宿。
緊張は極度に達しているはずですが、疲れがそれを上回っていました。
ザックを抱え、ベンチで、芝生で、倒れるように眠りました。

ヨセミテへはここから、車なら10時間くらいの場所。
そこへ着くのに、まだ1週間近くかかるなどとは、このときまだぼくは思ってもいませんでした。

初めてのサンタモニカから10年以上たったある日。
ぼくは仕事で、そこを訪れていました。
レンタカーでビーチサイドロードを流したとき、ふと記憶をくすぐる「ベンチ」を見かけました。
ほとんどホームレス状態の、若きぼくが、丸まって眠ったあのベンチかも・・・・・そう思うと
なんだか切なくも懐かしく、濃密だったあの「時間」が愛おしく蘇るのでした・・・・・。

つづく

by hwindlife | 2009-04-06 20:37 | 好きなこと大切なこと  

おなか痛い・・・・

数日前から息子が夕食時に、おなか痛い…といって食が進みません。
食が細い息子が、また食べるのがいやだから、そう言ってるのだと思い
ぼくは少しキツく、食べるのを促しました。
昨日から息子は発熱し、そして病院にいった結果、軽い胃風邪だと診断されました。
それが原因で、おなかが痛かったのです。

少しぐったりして、元気のない息子をソファーでずっと抱いていました。
ごめんね・・・・・・もっとちゃんと、君の言葉を聞いて、そして何かしてあげれば
よかった。
38度も熱があると、ずいぶんと熱く感じます。
いつもおちゃらける息子も、今日は静かです。
流しちゃだめだな、子供の言葉を。
もっと丁寧に、接してあげないと。
少し、自己嫌悪に陥っています・・・・・。

下の娘は二歳。
彼女こそ、まだコミュニケーションがうまくとれず、なかなか気持ちを理解して
あげられません。
なぜ泣いているのか。
何を要求しているのか。
どうして欲しいの?
なかなかその意味が、わからないのです。
途方にくれ、その挙句、自分もいらついてしまいます。
そして・・・・・自己嫌悪です。

でも、もっと、いまよりもっと丁寧に接していれば、その感情の動きがきっとわかるはずです。
ぼくは最近、自分にいっぱいいっぱいで、子供たちとの接し方に少し問題があったかもしれません。
犬のサクラは、言葉はもちろんしゃべれませんでした。
でも、かなり、コミュニケーションをとれたのです。
そう、努力したからです。

息子のお腹をさすりながら、心の中で「イタイのイタイの飛んでケー!」と何度も念じていました。
明日は、元気ないつものやんちゃに、なってください。

by hwindlife | 2009-04-03 00:28 | 息子とのこと  

マジックアワー


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コメントを頂いて、あらためて思いだしました。
夕暮れ時、太陽が沈んで暗闇になるまでの、しばしの時間。
海の向こう、山の向こうに沈んだ太陽が、雲や空を下から照らし
そしてそれがオレンジから赤く燃え、そしてゆっくりと紺碧の帳にとけてゆく・・・・・。
ほんの短い時間だけれど、言葉に言い尽くせない「色」を演出してゆく大自然の様には
ただただ、見つめて感動するばかりです。
夕方、マジックアワーの10分程度を意識できた日は、なぜだか幸せな気分になります。

夕暮れのマジックアワーに比べれば少し地味ですが・・・・・。
夜明けの茜色も、ぼくはとても好きです。
数年前の春、ヨットででかけたぼくは鳥羽のある緑深い入り江に、船を舫っていました。
少し寒くて、目が覚めると外が何やら不思議な色合いをしています。
目ぼけた目をこすりながらデッキに出てみると・・・・・・東の空が見事な色に
染まっていました。
茜色?紫?言葉にしがたいその色は、時間とともに、どんどんと色をかえてゆきます。
海は空の鏡になって、ぼくの船まで同じ色に染めます。
素敵な光の中に、ぼくの船は浮かびます。
こんな色の海を、ぼくは見たことがありませんでした。

ピーンと張りつめた冷たい空気中、ぼくは言葉を失って見入っていました。
夜明け前の、ほんの10分ほどのマジックでした。

ぼくはあの、光を見たくて、またあそこへゆきたいと思っています。
二度と同じ光景は見られないでしょうけれど、また違った素晴らしいものを
見つけられるような気がするのです。

by hwindlife | 2009-04-02 00:25 | 自然について