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「エッジ」にいるということ

あるクライミング雑誌をながめていました。
それはフリークライミングやアルパインクライミングのハード・コアな雑誌。
登らなくなった今でも時折買い求め、いろんな刺激をそこからもらっています。

ヒマラヤなどの大きな山で、前衛的なクライミングを実践する「連中」の対談が
そこにありました。
彼らは一様に生きるか死ぬかのシチュエーションでの緊張感に、そこへ行く価値があるのだと
語っています。
そこでの「リスク」とのかけひきが、心を駆り立てるのだと言います。
ぼくも少しは、その気持ちが理解できます。
でも、そんなシチュエーションに自らの身を置いたのは、果たしていつだったか・・・・。
もう忘れてしまいました・・・。

クライミング・スキルがあがれば、どんどん難しいレベルのクライミングを目指します。
リスクのレベルは高くなるけれど、自分のレベルも上がっているからそこでの距離感は
スキルが上がる前、もっと簡単なルートを攻めていた時と変わらない。
自分のレベルとリスクのレベルの「距離感」を常にコントロールすることが
クライミング世界で長生きするこつでもあります。
それにしても、どんなレベルの技量であっても、いっぱいいっぱいの「エッジ」の位置に
自分の身を置くことができるとき、それは刺激的で、創造的で、自分を誇らしく思う瞬間です。

自分は果たして、「エッジ」に実を置いたのはいつのことだったでしょうか。
クライミングもスキーもサーフィンもカイトも、そして仕事についても・・・・・。
マージンを沢山残して、満足しているような自分が嫌いです。
どこが自分の「エッジ」なのか、わからなくなっている、いやそこに行くのを怯えている
自分は大嫌いです。
伸びているときも、やむなく衰退しているときでも、「エッジ」にいる感覚さえ持ち続ければ
きっとその時の自分を誇らしく思えるでしょう。

「エッジ」の先は闇です。
落ちていくのかもしれない・・・・・。
でも本当の「光」は、その位置に立つものしか見ることが出来ないのだということを
知っているはずのぼくです。

by hwindlife | 2007-12-11 23:45 | 自然について  

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