「エッジ」で生きる
カイトの事故で、近くのゲレンデで人が亡くなった。
亡くなった方は存じてないが、その場所はよく知っているところなので
他人事のように感じられない。
事故が起こった沖合の海は、ウインドサーフィンに強い希望を感じていたころ
季節曜日に関係なく、風が吹けば走り回った「海」だ。
その頃はそこに空港などなく、海ももっと広くて、風もナチュラルに流れたように思う。
人工物で囲まれた今のその「ビーチ」は、風も行き場を失いかけ
時には強く、あらぬ方向に吹いたのかもしれない。
事故の直接的理由はまだわからない。
でも変わってしまったとはいえ、あの海で
人が命を落としたのは、なんとも切ない・・・。
カイトボードは、それをする全ての行為が「エクストリーム」だとはいえない。
確かにイメージとして、高く飛び、3次元の複雑なトリックは、常識を超えている部分もある。
しかしながら、スキーやスノボーなどのアウトドアスポーツとなんら変わるところはなく
気軽に安全に楽しむ「カイト」から、本物の「エクストリーム」まで存在する。
今回の事故で、どこかの炎上しているサイトのように、一言で「無謀」と決めつけられるには
かなりの抵抗もあるが、反論しても不毛だ。
20代のころ、クライミングの世界に没頭した。
この世界は、いくところまでいくと、かなりの確率で命をかけた状況に
追い込まれるものだと、なぜか自然に思っていた。
確かに、多くの友人を、日本の冬山で、ヒマラヤで、マッキンレーで失った。
生き残っても、その多くの指を失った友人も多い。
強いクライミングへの情熱を持ってそれに臨めば、難しさ、高さ、そして危険度へと
そのグレードをあげてゆくのが、この世界の自然のなりゆきなのだ。
最終的には、無酸素でソロで、8000M級の「壁」を、バックアップなしで攀じる・・・。
そこまでたどり着けるのほんの少しで、稀な才能と運の持ち主だ。
そしてその、高みのたどりついたステージでは、生存の確率は、フィフティー・フィフティーだとしても、本人には充分なチャンスと感じられる。
「常識」は、あの世界と、一般的な世界では、大きく異なる。
自分は、その高みを目指す途中のステージで、自分の非力さを胸に、一生刻印されることになった。
パートナーの友人を失い、しばらく間、自分も生きる力を失った。
同情もあったが、マスコミも、身近ではないまわりも、「無謀」「未熟」
「自己満足による迷惑」などと、強いバッシングに溢れた。
幸か不幸か、心を失っていた自分は、そんな言葉に揺れることもなく
所詮、わかってもらえることではないと、思っていた。
入院していた病院の窓から、消えてゆく残雪をみながらも、死んだ方がましだったと
何度も思った。
そして何年かして、ぼくは逃げるように山の世界を離れ
海へ逃げてきた。
好きなことをして、命を絶ってしまうことに対して、ぼくは理屈で答えられない。
ただ、ただ、切ない。
世の中には、好きなことをして生きないと、生きられない「人種」がいるのだと
信じるようにしてきた。
だから、「むこう側」の理屈では、異常で理解不能な行動も、結果も
「こちら側」では、普通・・というか、なんとなく、わかるのだ。
逆に、だんだんと年齢を重ねるに従って、クリティカルな「エッジ」に
なかなか立てない自分に苛立ちと、失望を感じることも多くなった。
丸くなったなどと人に笑っていいながら、情けなさに震える。
命は大切にしようと思う。
でもそれは、「生きてる証」を持った命であり、充実した時をともなった命でなくてはならない。
これからの人生、あと何回、「エッジ」に立って魂が震える声を聞くことができるだろうか。
亡くなった方は存じてないが、その場所はよく知っているところなので
他人事のように感じられない。
事故が起こった沖合の海は、ウインドサーフィンに強い希望を感じていたころ
季節曜日に関係なく、風が吹けば走り回った「海」だ。
その頃はそこに空港などなく、海ももっと広くて、風もナチュラルに流れたように思う。
人工物で囲まれた今のその「ビーチ」は、風も行き場を失いかけ
時には強く、あらぬ方向に吹いたのかもしれない。
事故の直接的理由はまだわからない。
でも変わってしまったとはいえ、あの海で
人が命を落としたのは、なんとも切ない・・・。
カイトボードは、それをする全ての行為が「エクストリーム」だとはいえない。
確かにイメージとして、高く飛び、3次元の複雑なトリックは、常識を超えている部分もある。
しかしながら、スキーやスノボーなどのアウトドアスポーツとなんら変わるところはなく
気軽に安全に楽しむ「カイト」から、本物の「エクストリーム」まで存在する。
今回の事故で、どこかの炎上しているサイトのように、一言で「無謀」と決めつけられるには
かなりの抵抗もあるが、反論しても不毛だ。
20代のころ、クライミングの世界に没頭した。
この世界は、いくところまでいくと、かなりの確率で命をかけた状況に
追い込まれるものだと、なぜか自然に思っていた。
確かに、多くの友人を、日本の冬山で、ヒマラヤで、マッキンレーで失った。
生き残っても、その多くの指を失った友人も多い。
強いクライミングへの情熱を持ってそれに臨めば、難しさ、高さ、そして危険度へと
そのグレードをあげてゆくのが、この世界の自然のなりゆきなのだ。
最終的には、無酸素でソロで、8000M級の「壁」を、バックアップなしで攀じる・・・。
そこまでたどり着けるのほんの少しで、稀な才能と運の持ち主だ。
そしてその、高みのたどりついたステージでは、生存の確率は、フィフティー・フィフティーだとしても、本人には充分なチャンスと感じられる。
「常識」は、あの世界と、一般的な世界では、大きく異なる。
自分は、その高みを目指す途中のステージで、自分の非力さを胸に、一生刻印されることになった。
パートナーの友人を失い、しばらく間、自分も生きる力を失った。
同情もあったが、マスコミも、身近ではないまわりも、「無謀」「未熟」
「自己満足による迷惑」などと、強いバッシングに溢れた。
幸か不幸か、心を失っていた自分は、そんな言葉に揺れることもなく
所詮、わかってもらえることではないと、思っていた。
入院していた病院の窓から、消えてゆく残雪をみながらも、死んだ方がましだったと
何度も思った。
そして何年かして、ぼくは逃げるように山の世界を離れ
海へ逃げてきた。
好きなことをして、命を絶ってしまうことに対して、ぼくは理屈で答えられない。
ただ、ただ、切ない。
世の中には、好きなことをして生きないと、生きられない「人種」がいるのだと
信じるようにしてきた。
だから、「むこう側」の理屈では、異常で理解不能な行動も、結果も
「こちら側」では、普通・・というか、なんとなく、わかるのだ。
逆に、だんだんと年齢を重ねるに従って、クリティカルな「エッジ」に
なかなか立てない自分に苛立ちと、失望を感じることも多くなった。
丸くなったなどと人に笑っていいながら、情けなさに震える。
命は大切にしようと思う。
でもそれは、「生きてる証」を持った命であり、充実した時をともなった命でなくてはならない。
これからの人生、あと何回、「エッジ」に立って魂が震える声を聞くことができるだろうか。
by hwindlife | 2011-12-27 13:20 | 好きなこと大切なこと